「情けは人の為ならず。」は危険な気がする
3行まとめ
- 「人に情けを掛けておくと、巡り巡って結局は自分のためになる」と言われているが、分かっていてもなかなか行動できない。
- 人に優しくなるには「相手を思いやる」か「優しい自分を好きになる」かだと思うが、前者は無意識に見返りを求めてしまうため、なるべく後者の考え方をするようにしている。
- 情けは人の為ならず。「人に優しくしよう」という教訓はよいが、「自分のためになるから」という考え方は、見返りの期待になり、返って人に優しくなれなくなるかもしれない。
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情けは人の為ならず。
「親切にするのはその人のためにならない」という誤った使い方をされることが多い言葉ですが、本来の意味は「人に情けを掛けておくと、巡り巡って結局は自分のためになる」という意味です。
つまりは、「結局は自分のためになるんだから、人に優しくしなよ」という言葉なのですが、分かっていてもなかなか優しくできないですよね…。
私もついつい自分勝手に振舞ってしまい、後からもっと優しく接すればよかったと反省します…orz
では、何故人に優しくなれないのか?
相手の態度が気に食わないとか、昔裏切られたことがあるからとか、単に相手が嫌いだからとか、色々理由はあると思いますが、冷静に自分の気持ちに向き合い、本当の理由を追及していくと、意外と「優しくなれる/なれない」は相手の問題ではなく、自分の問題であることが多いことに気付きました。
どういうことかと言うと、人に優しくなれないときは大体「自分の心に余裕がないとき」なのです。
相手の態度が~とか、~~だからとか、相手のせいにしがちですが、それは順序が逆で、「相手に問題があるから」ではなく、「自分が優しくできなかった理由を正当化するため」なのです。
ちなみに、なぜ心に余裕がないと人に優しくなれないのでしょうか?
心に余裕がないときは、追い詰められていたり焦っていたりして、近視眼的に結果を求めてしまいがちです。そのような心境・狭い視野が「自分のこと第一」になり、優しくなれない理由になっているように感じます。
さぁ、人に優しくなってみよう
さて、本当に相手に問題があるのならまだしも、自分に原因があり、その後ろめたさを隠すために相手を悪く思うのは最悪ですよね。
ということで、最近は何事にも怒らず、優しくなろうと心掛けています。
人に優しくするときのモチベーションですが、私は大きく2種類あると思っています。
(1)相手を思いやる。
「優しくされたら嬉しいだろうなぁ」とか、「相手も大変なんだろうなぁ」とか相手の気持ちに立って、優しい気持ちを湧き起こす方法。
聖母のような人ですね。
(2)優しい自分を好きになる。
優しい自分を大好きになって、ある意味で自分に酔って優しくする、という方法。
ナルシスト的な要素が入っていますね。
一見すると「(1)相手を思いやる。」方が健全でいい気がしますが、私は敢えて「(2)優しい自分を好きになる。」で自分を奮い立たせるようにしています。
というのも、「(1)相手を思いやる。」は余程出来た人間でないと、無意識のうちに「私はこんなに優しくしているのに」という見返りを求めはじめてしまう危険性があるからです。
それに対して「(2)優しい自分を好きになる。」は、自分の中で全てが完結しており、ある意味、見返りが無くても満たされるのです。
「情けは人の為ならず。」の良いところ、悪いところ
さて、最初の話題に戻って「情けは人の為ならず。」
これは、「人に情けを掛けておくと、巡り巡って結局は自分のためになる」というまさに見返りを期待する言葉です。
「人に優しくしよう」という教訓は間違いなく素晴らしいです。
でも一方で、その理由が「自分のためになるから」だと、見返りの期待になってしまい、万が一、いつまでも見返りが発生しないと「私はこんなに頑張っているのに」という感情が湧いてしまい、それ以降、かえって人に優しくなれなくなるかもしれません。
せっかくの素晴らしい言葉なのに、それは本末転倒だなと。
そのままの意味を全て期待してしまうと、「情けは人の為ならず。」は危険な気がします。
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ちなみに余談ですが、本来の意味と誤った意味、どちらが適切と思うかアンケートを取ったところ、45.8%と45.7%というほぼ同一の結果になったそうです。
2018/07/25(水) 総アクセス数:310