たった1つの「正しい情報」

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涙も出なかった圧倒的な「恥」のはなし

白井さんは私が入社して最初にお世話になった先輩である。

 

とても優しく穏やかな人で、怒った顔はもちろん、不機嫌な顔すらも見たことがなかった。しかし、仕事ぶりはお世辞にも優秀とは言えなかった。丁寧でミスのない仕事ではあるが、とにかく遅かったのだ。

それは能力の問題だけでなく、彼の性格にも起因していた。彼はその優しさの故か、とにかく気が小さくオドオドとしていた。上司に話しかけるだけでも、顔色を伺い、仕事の邪魔にならないタイミングを何度も見計らっていた。結果、大した仕事量ではなかったはずなのに、彼はいつも切羽詰っていた。

 

仕事以外の部分でも冴えない様子が伺えた。

年齢は40代前半だが、結婚している様子はなかった。しかし、独身貴族を満喫している様子は全くなく、服装に至っては寧ろ「みすぼらしい」くらいであった。

お昼は自分で作ったと思われるお弁当をひっそりと食べており、夜は同僚と飲むこともなく帰宅の途に着いていた。

 

 

そんな白井さんは数年前から新卒社員の研修を担当している。

そんな私も白井さんの研修を受けた一人だ。白井さんは新人に対してもオドオドとしていたが、その指導は丁寧で、私達を一生懸命育ててくれようとしている様子が伺えた。

 

私の同期に、赤石という男がいた。

男である私から見ても「イケメンだな」と思うルックスで、顔付きからも姿勢からも自信がみなぎっていた。大学時代のバイト代で買ったという少し高価なスーツと、入社祝いに親から買ってもらったという高そうな時計を身に付け、新人ながら「デキる大人のオーラ」を纏っていた。

 

初日はキラキラしていた赤石の目は、すぐにアタフタする白井さんの姿を見て、日に日に失望の色に変わっていった。2週間が経った頃には、白井さんを馬鹿にするような態度すら取るようになっていた。そして、正直に言うならば、私も白井さんを下に見ている節があった。

 

残酷なことに、思っていることは態度に出るものである。自分が馬鹿にされていると気付いた白井さんは、怒るわけでも叱るわけでもなく、ただただ困ったように笑っていた。

 

 

3か月の研修期間が終わった。最後に白井さんが私達に励ましのメッセージを送ってくれた。しかし、決してスマートではなくオドオドとした白井さんのスピーチは、赤石の心に響くことは無かった。 

「白井さんって、何であんなに貧乏くさい格好してるんだろうな。俺なら恥ずかしいわ。」

「まーなぁ。あれじゃあ、結婚も難しいよな。」

赤石が何ともなしに言った言葉に、私が反応した。その瞬間、皆の顔が強張り、時間が一瞬で凍った。

「ん?」

私と赤石だけが分かっていなかった。私達からは見えない位置に社長がいたのだ。そのことに気付いたとき、私はもちろん、流石の赤石も顔色が変わった。

 

「2人とも、ちょっと来て貰えるかな。」

うちの会社は100名にも満たない中小企業なので社長の顔くらいは分かる。しかし、それでも社長室に入ることは滅多にないことである。それが、まさかこんな形で社長室に入ることになるとは思わなかった。

「白井さんのことで何か話していたようだね。」

「・・・。」

「ま、本来は私が口出しするようなことではないかもしれないがね。白井さんのことをよく知っているだけに黙っていられなくてね。」

「え?」

社長の口調は厳しいわけでもなく、怒りに満ちている訳でもなく、寧ろ寂しさと私達に対する憐みさえも覚える口調であった。そして、その理由が分かるのに時間はそれほどかからなかった。

 

 

それは驚くべき真実だった。
当然であるが、白井さんはお金がない訳ではなかった。ただ、給与の殆どを近所の児童養護施設に寄付しているだけであった。給与の「殆ど」である。別にお金が無くて、服装がみっともないわけでもなければ、お昼を質素にしている訳でもない。ただただ、彼はそこで使うはずだったお金を寄付に使っているだけであった。実際、彼も昔は、他の社員同様にオシャレな格好をし、お昼を外で食べ、夜は同僚と飲みに行っていたらしい。

「何故なんですか?何でそこまでして…?」

私は聞かずにはいられなかった。

「彼は数年前に奥さんを交通事故で亡くしているんだよ。そして、その奥さんは身重な状態だった。彼は…子供が生まれてくることを相当に楽しみにしていたのにね。最愛の奥さんと、奥さんと可愛がる予定だった子供を同時に失ったんだ。暫くの間、悲しみに明け暮れ、会社に来ることも出来なかった。

それから暫くして彼は出社できるようになった。馬鹿丁寧に、私のところにも来たよ。会社を休んですいません、とね。そんなことよりも彼の状態が心配だった。しかし、彼はこういったんだ。

『もう大丈夫です。これ以上泣いても2人は帰ってきませんから。それよりも、今後はこの悲しみを知っているからこそ出来ることをしていきたいと思います。きっと妻もそれを望んでいるはずです。』

正直、そのときは白井さんが何を考えているのかは分からなかったのだがね。それでも、強い人だなと思ったよ。その時に『そう思わないとやっていけないだけです。』と答えた彼の困ったような、泣きそうな笑顔は忘れられないよ。」

 

 

「それから暫くして私は彼が近所の児童養護施設に寄付を始めたことを知った。彼に聞いたところ、子供に注ぐはずだった愛情を注ぐ先が見つかりましたと笑顔で答えてくれたよ。土日はその児童養護施設にボランティアとして働きにいっているそうだ。

身を削るように寄付をしていることは他の人から聞いていたし、何より彼の姿勢に感動して、あまり大きな声では言えないが、彼の給料を上げさせたんだ。でも…あまり意味はなかった。昇給した分だけ、寄付金額が増えただけで彼は相変わらず質素に生活をしていた。自分がした行動がいかに俗物的発想だったか、彼に教えられたよ。

彼は仕事の能力はイマイチかもしれないが、代わりに人として大切な心を持っている。だから、より多くの人にその心に触れて欲しくて研修担当に抜擢したんだ。」

 

最後に社長は静かにこう言った。

「陰口は良くないが、そう思ってしまうこと自体はどうしようもない。人の感情はコントロールできないからね。ただ…彼は本当に小馬鹿にされるべき人間なのだろうか。」

 

私も、赤石も、一言も言葉を発することが出来なかった。
彼の高級腕時計から時を刻む音が聞こえるほど、部屋の中は静寂だった。 

 

2018/10/19(金) 総アクセス数:1,899

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