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「怒らない優しい人」が支払った代償

3行まとめ

  • 小心者な私は「怒らない人はかっこいい」は美学だと自分に言い聞かせてきた。
  • その結果、怒るかどうかの基準が「一般的に怒っても当然のことか」になり、自分が本当に怒っているのかどうか、自分でも分からなくなってしまった。
  • 「怒らない優しい人」の称号と引き換えに「中身のない人」になった私は、自分の感情を知る大切さを知った。

 

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「怒る」ことは私にとって怖いことだった

思えば幼少の頃より、私はかなりの「小心者」だったと思う。

 

人から舐められやすい性格をしていた私は、子供のころ、いじめられる対象になることもよくあった。

そのせいか、物心のついた頃には人から嫌われないように、怯え、注意を払うような子供だった。

周りの人が不機嫌そうな顔をしていると心当たりが無くても「自分が怒らせたのかもしれない」と考え、何とか機嫌よくなってもらおうとしていた。

 

そんな小心者の私にとって「怒る」という行為はとんでもないことだった。

自分が怒って、そのことが他人を不機嫌にしたらどうしよう。

それどころか怒り返されたらどうしよう。

「そんなことで怒ってるの?」とか思われたらどうしよう。

怖い怖い怖い…そんなことしか考えられなかった。

 

その結果、私はあまり怒りを表に出さない人となった。

 

本当は怒っている、でも怖くて怒れない。

でもそんな情けない自分は本当は嫌だ。

 

そんなジレンマを解消するため、そしてそんな自分を正当化するため、「怒らない人は人間の器が大きくてカッコいい」と思い込むようになった。

 

「だから、自分はカッコ悪くない」と自分に言い聞かせるために。

 

人と初めて衝突し、自分の異常さに気付いた

時が経ち、大人になった。

幼少期と比較すると、人と衝突する機会は増えたように思う。

 

でも人とぶつかり、怒る展開になることを怖れた私は、出来る限り争いを避けた。

もちろん、衝突を避けられないこともあったが、基本的には「まぁいいか、これくらい」と自分に言い聞かせ、出来る限り速やかに、出来る限り相手を怒らせることなく、生きてきた。

 

そして更に時が経ち、私は結婚した。

妻は、自分に似ている部分もあり、自分が持っていない部分もある素敵な女性だ。

自分には勿体ないくらい素敵な女性だが、一般的な夫婦がそうであるように、それでも意見が衝突することがあるし、許せないことも出てくる。

 

今までの人生でもそんなことは多々あった。

しかし、今回は今までと大きな違いがある。

一つ屋根の下に暮らし、人生を共にしている以上、これまでのように争いを避けることには限界があるということだ。

そう、私は30歳を過ぎて、初めて「人との争い」「怒りという感情」と向き合うことになったのだ。

 

30年間培われた自分のクセは当然に根深い。

これまで 「怒ること」を避け続けた結果、「怒り」の感情が分からなくなった。

 

「そんなことで怒ってるの?」と思われることを異常に怖れた私は、いつの間にか「世間一般の基準からして怒って当然のことか?」を考え、怒る前には必ず「自分は怒ってもよいのか?」を自分に問いかけるようになっていた。

 

そんな冷静なことを考えていたら多くの人は怒りも失せてしまうだろう。

私も例外ではなく、怒っていたはずなのに次の瞬間には自分が何に怒りを覚えていたのか分からなくなってしまうのだ。

 

もう一度。

 

怒っていたはずなのに次の瞬間には自分が何に怒りを覚えていたのか分からなくなってしまうのだ。

 

…信じがたい話である。

自分の心から湧き上った抑えきれない感情なのに、自分でもその感情が何なのか分からないのだ。

 

「自分の感情」に向き合うことで「本当の自分」に気付ける

「自分は怒っている」

そう思って怒りを表に出そうとするが、気が付けば理性がブレーキをかけ「本当に怒っているのか」「怒らないといけないようなことなのか」を自分に問いかけてくる。

そうすると、怒りながら自分の怒りの正当な理由を考え、ロジカルに説明しようとする。

 

だが、怒りなんて本能の賜物であり、その人の価値観に由来するものなのだから、全てをロジカルに説明できるわけがない。

結果、論点がどんどん変わっていき、そもそも自分が何に怒っていたのかが分からなくなっていく。

 

妻は「あなたが分からない」とよく言う。

当然だと思う。でも間違っている。

 

「分からない」ではなく、「中身がない」のだ。

 

上で書いた通り、怒り(=許せないこと)はその人の価値観に由来するものである。

つまり、「自分が何に怒っているのか分からない」とは、アイデンティティを失っているも同然なのだ。

 

今頃になって私は「自分の感情」から逃げていたことに初めて気付き、同時に「自分の感情」に向き合う大切さを知った。

そのことに気付くのに、かなりの遠回りをしたのかもしれない。

 

 

周りから私は「怒ったところが想像できない優しい人」と思われている。

だが、実際は優しい人ではない。

ただ、人と衝突し、嫌われることが怖くて仕方がないだけである。

「怒り」を避け続けた結果、「怒る方法」が分からなくなっただけである。

「怒る」ほどの「中身」を持っていないだけである。

 

「怒らない優しい人」が支払った代償はあまりにも大きい。