師を誤るほど不幸なことはない
3行まとめ
- 『師を誤るほど不幸なことはない』とは、オウム真理教事件を担当した裁判長の御言葉。仰る通りである。
- 我々日本人は世界的にみると宗教への関わりが薄く、かつ、核家族化が進んでおり日常生活の中で関わる「大人」の数が限定的になりつつある。だからこそ、昔以上に「誰をお手本にするか」の重要性が高まっているように感じる。
- 「朱に交われば赤くなる」ではないが、意図的にせよ無意識にせよ、人は周りの環境に依存される。そのため、我々はもっと積極的に「師を定める」べきなのかもしれない。
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『師を誤るほど不幸なことはない。』
上記言葉はオウム事件の林泰男被告の裁判で、木村烈裁判長の判決文の一部です。
林泰男という人は、「師を誤った」ばかりに、もっと世の中の役に立つことに使われていたかもしれない能力で、多くの人々を苦しめてしまったともいえるのです。
上記言葉の通り、仰ぐ師が違っていればもっと異なる未来があったのでしょう。
しかしそれは、林被告に限らず、我々にも言えることだと思います。
海外だと日曜日は協会に行って聖書を読むなど、「宗教」という形で「自分はどうあるべきか」を知り、考える機会があります。
ところが、日本では海外ほど宗教の関わりは強くなく、「自分はどうあるべきか」を学ぶ機会は専ら家庭や学校・職場が中心となります。
しかし、核家族化が進み、地域との関わりも薄くなっている現代では、祖父母や親族、地域住民との繋がりも限られており、自らのお手本となるべき人物は父母や先生、上司などが中心になっています。
つまり、「お手本となる大人」の候補が減っており、だからこそ「誰を自分のお手本とするか?師とするか?」が昔以上に重要になっているのです。
「自分が目指す姿」をモデルケースとして持っているか?
この記事を読んで、個人的に振り返ってみたのですが、実は私自身も『師』としている人物はいません。
(子供がいるわけではないですが)「自分の子供に胸を張って語れることだけをする」という行動指針は持っていますが、その程度であり『師』に該当する人はいません。
無理に『師』を設定する必要はありませんが、「朱に交われば赤くなる」の言葉の通り、人間は無意識のうちに周りの環境に影響を受けてしまう生き物なので、「なりたい自分」を描かないでいるよりも、「具体的にこんな人になりたい」という理想像を持っている方が、より良い自分になれると思われます。
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ところで、社会人になると自分で選んだわけでもないのに『師』に近い存在が出てきます。「上司」です。
私自身はかなり上司に恵まれており、尊敬できる人々ばかりだったのですが、全員がそんな良い上司と巡り合える訳ではありません。
先日、大学の後輩から部署異動したとの話を聞きました。
聞くと、上司の方針が自分と合わず、「この人には付いていけない」と判断し、自ら望んで部署異動したとのこと。
もちろん、どちらに問題があったかなんて分かりません。
彼自身、そんな行動を起こすことで社内の評判がどうなるか、かなり悩んだそうです。
それでも、仰げない『師』の元で時間を費やす事の方が彼にとっては辛かったのでしょう。今の上司を切り離して、意志を持って自分の環境を変えた彼の決断は純粋に凄いなと思います。
『師を誤るほど不幸なことはない』
言い換えると『我々はもっと自分の師を選ぶことにこだわった方がよい』ということなのかもしれません。
2018/08/10(金) 総アクセス数:365